杉原千畝氏・6000人のユダヤ人を救った外交官
第2次大戦初頭、リトアニアの日本領事館がある日突然、大量のユダヤ人に囲まれたそうです。驚いた大使館員は、事情を聴くと、彼らはナチスドイツの迫害から逃げてきた人達でした。彼らは、南北アメリカに逃げ延びるために、シベリアを横断して、中国、日本へ渡り、太平洋を越えるルートにわずかな望みを託して日本領事館へと殺到して来たのでした。大西洋を渡るルートは、ドイツ海軍の攻撃が容易に想像できたための苦肉の策でした。
日本は当時、日独伊三国同盟を結ぶ直前。領事代理だった杉原氏のビザ発給の打診に外務省は、難色を示しました。杉原氏が何度か外務省に打診をしている間にも、ユダヤ人の数は日に日に増えていったそうです。
そして、遂に杉原氏はビザ発給の決意をしました。手書きのビザだったので、大変な作業だったことは想像に難くありません。戦火が広がり、杉原氏自身もリトアニアから避難しなければならない日には、列車の窓からビザを手渡したそうです。
戦後、杉原氏は外務省での職を追われました。しかし、杉原氏のお陰で命を救われたユダヤ人達が、杉原氏を探し出し、アメリカで大変な歓待を受けました。そして、杉原氏の長男は、イスラエルのヘブライ大学で学び、ダイヤモンドの会社を経営するようになったそうです。そして、杉原氏は2000年、外務省から名誉回復がなされました。杉原氏は1975年逝去なさっています。
その杉原氏の記念樹がオスカー・シンドラーの記念樹とともにエルサレムにあります。杉原氏は晩年、「私の判断は外交官としては間違っていたかも知れないが、人間としては正しかった」と語ったそうです。
記念樹があるエルサレムのヤド・バシェムには、他にも杉原氏とシンドラーの他にも、当時ユダヤ人を助けた外国人の記念樹が沢山あります。しかし、日本人で記念樹があったのは杉原氏だけでした。
杉原氏のような偉人のゆかりの地にお参り出来たことを大変嬉しく思うこととともに、同じ日本人として杉原氏を誇りに思いました。
写真:杉原千畝氏の記念樹(エルサレム郊外 ヤド・バシェム)